脳死というのは、不可逆的な物で、だからこそ脳死を死と同様に扱い、臓器提供が行われるようになっているが、そういったこれまでの常識に疑問を投げかける画期的な現象が確認された。
米国の科学者たちは、脳死による死亡判定後5時間経過した臓器提供者から採取された眼の網膜細胞の一部が光に対する反応を示し、「生きている被験者から記録されたものに似た」信号を送ることができることを証明したのである。
これらの網膜細胞の一部は、脳と脊髄を含む中枢神経系(CNS)の一部を構成していることから、CNSの他の細胞も同様に回復する可能性があり、脳死の人が意識を取り戻すことが出来る可能性があるとの事だ。
脳死の不可逆性に疑問を投げかける
脳死とは、誰かが外的な支えなしに自分で呼吸することが出来なくなり、生命維持活動が出来なくなる状態だ。これは不可逆的な物で、それ故に人は死亡と宣言される。
研究者らは、科学誌『Nature』に寄稿をし、今回の研究成果について、「現在定義されている脳死が本当に不可逆的なものなのかどうか、新たな疑問を投げかけるものである」と述べている。
研究グループのユタ大学のモラン眼科センターのFatima Abbas博士は、次のように述べている。
「臓器提供者の死後5時間以内に得られた目では、これらの細胞は、明るい光、色のついた光、そして非常に暗い閃光にさえ反応した」。
これまでも、科学者達は、死んだ人々の臓器に生命を取り戻す方法を模索してきた。2019年、エール大学は、4時間前に屠殺された32頭の断頭した豚の脳を、化学物質を使って、血液循環と代謝を取り戻すことに成功している。しかし研究はそこから先には進まなかった。ニューロンの活動が戻らなかったのだ。
今回の網膜細胞に関する研究はさらに一歩進んで、生きている脳で記録されるゆっくりとしたリズムの振動である「b波」を回復させたと述べている。
ユタ大学の眼科・視覚科学助教授であるFrans Vinberg博士は、次のように述べている。「エール大学の研究では、豚の脳の神経細胞の協調的な集団活動を復活させることはできませんでした。」そして、「今回の研究では、中枢神経系の重要な部分であるヒトの網膜中心部において、死後5時間まで視細胞からの集団反応を復活させることができました。網膜細胞同士を、生きている眼球と同じように会話させることができたのです」と述べている。
また、「網膜は中枢神経系の一部なので、脳の他の部分でも同様のことが見られるかもしれないと考えています」とのことだ。
研究当初は目の中の光感知ニューロン(光受容体)を復活させることは出来たが、細胞が網膜の他の細胞、つまり光を集めて脳に画像を送る目の後ろの組織と通信を行わなかった。
研究チームは、酸素の不足が原因である事を突き止めた。そこで、ドナーから取り出した目に酸素と栄養を供給できる特別な輸送装置を設計した。これによって、チームは、「b波」と呼ばれる、生きている目にのみ存在する電気信号を観測した。故人の目から観測された初めてのb波記録となる。
研究者らは、将来的にこの研究が進み、ドナーから提供された目を用いることで、現在霊長類で行われている目の実験が「生きた」目でも行えるようになり、視力低下の新しい治療法が早まり、神経変性疾患の解明が進むことを期待している。
Frans Vinberg博士は「科学界は、実験動物では不可能な方法で人間の視覚を研究できるようになりました。」と述べている。「我々は、この種の研究がもたらすエキサイティングな新しい可能性を理解してもらうことで、臓器提供者協会、臓器提供者、アイバンクの動機付けになることを願っています。」
また、Scripps Research AssociateのAnne Hanneken教授は次のように述べている:「将来的には、このアプローチを使用して、加齢性黄斑変性症などの黄斑疾患のある眼の視力と光信号を改善する治療法を開発できるようになります」。
臨死体験の専門家である米国NYUグロスマン医科大学のクリティカルケア・蘇生研究ディレクター、Sam Parnia博士は、この研究について「この興味深い研究は、社会的・歴史的な慣習として、死は永久的かつ不可逆的なものと考えられているのとは対照的に、生物学的な観点からは、死は死後も可逆的であり続けることを明確に示している」と述べている。「このことは、失明を含む脳や目の疾患の治療法として大きな可能性を秘めています。さらに、このような生と死の交差点での研究により、人間の心、脳、意識に死後何が起こるのかを中立的かつ公平な立場で科学的に探求することが可能になるのです」。
論文
参考文献
研究の要旨
死とは、循環器、呼吸器、脳の活動の不可逆的な停止と定義される。ヒトの末梢臓器の多くは、生存率を最適化するプロトコルを用いて、死亡したドナーから移植することができる。しかし、中枢神経系の組織は、循環が停止すると急速に生存能力を失い、移植の可能性を阻む。神経細胞死の時間経過やメカニズム、蘇生の可能性については、まだ十分に解明されていない。そこで、網膜を中枢神経系のモデルとして、神経細胞死と神経細胞再生の動態を系統的に検討した。マウスとヒトの死後網膜において、神経細胞シグナルの急速な減少を示し、生体内の同期したシナプス伝達を復活させるための条件を明らかにした。また、死後5時間以内に摘出した眼球の黄斑光受容体の光刺激応答を測定し、死後の光シグナルの可逆的および不可逆的な喪失を引き起こす修正可能な因子を同定する。最後に、ヒトと黄斑の網膜において、Gタンパク質シグナル伝達カスケードのモデルである光伝達の律速となる不活性化反応を定量化した。この方法は、ヒトの中枢神経系における画期的な研究を可能にし、神経細胞死の不可逆性に関する疑問を提起し、視覚リハビリテーションの新しい道を提供することで、幅広い応用と影響を与えることが期待される。
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